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コラム 毎週木曜21時更新

2016年11月24日  古典落語とクイズの共通点

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高校時代、ハンドボール部と落語研究部という運動系と文科系の両方の部に所属していた。このようなスタイルで部活を2つ掛け持ちしている生徒はほとんどいなかったのだが、僕は時間を惜しむかのようにこれらを頑張った。
実際の生活は部活を含む学校生活だけではなく、夜はバイトもし、恋愛もいろいろと楽しんで友達とも遊び、しかも1人でクイズを超ハードにこなしていた。1年生のときはこれにプラスして予備校にも通っていたし、音楽教室でドラムも習っていた。

しかしまあ、こう書いたらその3年間の毎日はいったいどんなスケジュールだったのかと思う。確実にわかることは当時すでにショートスリーパーだったということか。
高校を卒業したらこれらの時間がほぼクイズ一本に絞られるわけで、そりゃ強くなるわって自分のことであるにもかかわらず他人事のような感想を持ってしまう。

さて、高校の落研では勉強のために幾度となく寄席や落語会に通っていたのだが、あくまでもそれは観客としてだった。しかし人生とは不思議なもので、僕は大人になって落語とも縁が切れたころに今度は寄席の舞台に上がる側になってしまった。それが一昨年の「上方落語クイズ寄席」。場所は何と大阪の「天満天神繁昌亭」(!) 落語とクイズのコラボという斬新な企画で、クイズのMCでの出演だった。

その舞台の上から僭越ながら話させていただいたことを今回は簡単に書きたい。それは「古典落語とクイズの共通点」である。

古典落語を楽しむためには昔の生活様式や出て来る単語の意味などをある程度知っておかないといけない。もちろん知らなくても落語は楽しめはできるがどうしても、ああそういう意味ね、と納得するまでタイムラグができてしまう。『いかけ屋』という噺があるが、題名を見てこれが何を指すかぐらいは当たり前のように知っていないと噺に最初から入っていけないのだ。

これは古典落語のみならず歌舞伎や狂言など伝統文化に触れるときは常に同じといえる。予備知識が多い方が深い味わいまで触れることができるのだ。
ただ僕が落語にフォーカスするのは、古い言葉の使われ方が普通の話され言葉として頭の中にわかりやすく入ってくるからだ。
たとえばさっきの「いかけ屋」にしても一般の世界ではすでに死語として使われなくなっているが、それでも古典落語の世界では依然として生き生きと使われている。
そしてこの「生き生きと」の部分こそがまさしくクイズの世界と同じものだと僕は考える。クイズにおいては正解となる単語が死語になってしまうことがまずありえないからだ。

書店に行くと最近は「懐かしい日本語」的な本をよく見かけるようになったが、中身を読むと僕らクイズ屋には全然懐かしくないものばかりだ。いくら古い言葉でもそれらはクイズの世界では普通に在り続けているものでしかないからだ。
ちなみにこの手の本を僕らクイズ屋が読むと2つの方向性しかなくなってしまう。
1つが「そうそう、たしかに」と思いながら読む、いわば「知識の確認」である。これは一般の人も同じかも知れない。
そしてもう1つが、「死語」に対して「新語」を発見したような感覚を持ってしまうことである。「ん」がつくかつかないかだけだが大きな違いだ。
たとえ世間でとっくに死語になってしまっていてもあくまでも自分にとっては新しい言葉であるため、捉え方が一般の人とは大きく違ってしまうのである。「ふーん、こんな言葉あったんだ」と「おお、こんな言葉もあるんだ!」の差みたいな。

こうして考えていくと、日本語の中で使われる言葉を守って行くのは古典落語をはじめとする伝統芸能に携わる人々や国語学者だけでなく、クイズ屋もまたそうではないかという気がしてならない。いや、むしろ彼らよりも単語そのものを「生かしたまま使っている」わけだから、結果的にとはいえ、その保護レベルには圧倒的なものがあるとも思える。しかもジャンルに制限もないし。

なーんてつい大層なことになってしまいそうだが、面白いのはクイズをやっている人間が誰一人としてそんなことを考えていないということだ。もちろん僕もその1人で、「我こそは日本語文化の継承の鍵となる人材であり・・・」などということはみじんも考えたことがない。クイズは単に面白いからやっているに過ぎない。だから「結果的に」なのである。

4コマ漫画の『サザエさん』で、映画館にいる波平さんのハゲ頭が後ろの席の人にとって自分の座席の目印となっていることから、「誰もが何かしらの役に立っている」みたいなオチのものがあるんだけど、クイズをやることはこの話と似ていて、単に楽しんでやっているだけなのに実は日本語文化の重要な担い手になっていた、みたいなものがあるかも知れないのだ。いやーやっぱり大層な話だ。

あれ、だんだん話がズレてしまったぞ。まあいいか。とにかくこれが古典落語とクイズの共通点なのである。って強引なまとめ方やな。

ではまた来週の木曜日。




コメント(2)

“古典落語とクイズの共通点” への2件のフィードバック

  1. ゆみ~ご より:

    長戸さん、こんばんは。今日のコラムも拝見しました。
    一見、上方落語とクイズ?って思うようなタイトルでしたが、コラムを読み進めていくうちに、そういう観点もあるんだなって思いました。
    言葉だけでなく音楽なんかも同様なのかもとも思いますが、単に好きだとか楽しいとかそんなきっかけでも、その時に生き生きとしていたものを大切にしたいという思いを抱く人が一人、また一人と出てきて継承されていくのかもしれませんね。
    クイズを通して、それが新たな切り口の一つになるのかはわかりませんが、私たちにそのような日本語をどうやって伝えてくれるんだろうと期待してみたり。
    そんなところでも、クイズって奥が深いな~って単純に思ってしまいました。(単なるクイズファンな感想ですね。)
    私自身はそんな日本語をどうやって記憶にとどめるかが課題ですが。
    今後のコラムも楽しみにしています。

    • Nagato より:

      メッセージありがとうございます。
      クイズをやることの意義や効用なんかがよく語られるんだけど、それはあくまでも結果論であり副産物でしかないんだよね。クイズをやることの第一目的は楽しむためでしかありません。楽しんだあとに何かプラスアルファがあるからさらに有意義に思える、って感じかな。実際、副産物はいろいろあるし。

      とりあえずクイズはやってみなくては本当の面白さはわからない、ということで何か僕主催のクイズやトークのイベントができないかなと考え始めています。まだ全然形にもなっていないので、もしやると決めたらこのHPの「メッセージ」なり「ニュース」なりで発表しますね。これを読んでる方、ぜひ楽しみに待っていてください。

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