2017年9月27日 『28年前日記』その16 :準決勝 ボルチモア(1989年9月27日)
※1 この移動中に僕はとうとうクイズの勉強を始めた
ワシントンへ向かう機内から僕は勉強を始めた。途中、トイレに立ったトメさんが僕の近くを通るときに、とても優しい、柔らかな笑みを浮かべてくれていたのがとても印象に残っている。
※2 いつも通り田川さんは左側の一番後ろの席で静かに目を閉じて座っている
この左右はバスの中から運転席に向かってのもの。
左側に3人、右側に1人が座っているという状態だが、これはいつの段階からか指定席のようになっていた。
※3 何故かと言われても自分自身よくわからない
当然わかっています(笑)
「準決勝=ネクタイ」「決勝=パジャマ」は最初から決めていたのだが、メンフィスを準決勝と間違ってしまったのでネタが狂ってしまったのである(笑)
で、それまで着た服の中で一番思い入れが強いものにしようと考えてオールブラックスにしたのだ。サーファーズパラダイスとも迷ったが、今はオールブラックスで正解だったと思っている。
※4 本格的にクイズを始めたのがそう古いことでない
永田さんもクイズ出場自体のキャリアは浅くなかったが、大阪大学ではクイズ研ではなかったので(当時はまだ存在してなかったかも知れない。もしあったのなら僕が知らないだけだ。阪大OBの人、すまぬ)、どうしても趣味の域を出ていなかった。
1986年12月5日、その年の「マンオブザイヤー」に出るために乗った電車の車内で僕は秋利と初めて会ったのだが、実はこの翌日の12月6日、ホノルルクラブの合宿先で永田さんと初めて会っている。僕らは意気投合した。翌日一緒に関西へ戻るその電車の中で僕は彼をRUQSへ誘ったのだ。彼がハードにクイズをやるのはこの日からなのである。
![]() 休憩中に撮影された貴重な1枚。こういった写真が撮れてしまうラッキーさが『第13回』ならではなのだ。 |
※5 完全に近い状態を取り戻した僕が引っ掻き回していた
これはゲームの途中で明らかにプレースタイルが変わった。
放送でもあった「牽牛星は彦星のことですが、牽牛花といえばどんな花?」という問題で僕は間違ってしまう。早く押しすぎての誤答だったのだが、この「押し」の瞬間に僕の脳と耳と指が完全にくっついたのだ。ガクンという音がして何かがハマったのがわかったぐらいだ。
※6 ディレクターの加藤さん
加藤就一さん。
※7 トマホークの萩原さん
萩原津年武さん。ウルトラの問題の総元締めという感じの方。『第13回』ではゴールドコーストのビデオレターのところで映っておられる。最近では『ウルトラクイズの裏話』というブログも人気。
※8 4人それぞれに谷町的な人がいるのがわかった
まさか、握ってたのかー?(笑)
※9 5週目の放送枠を2時間に拡大することに成功する
これを僕が伝えられたのはニューヨークの決勝の翌日だったと記憶している。「5週目、2時間になったぞー」とニコニコして話しかけてくださった。先月(2017年8月)、その話を改めて加藤さんに伺ったが、やはり当時、編成とは結構モメたらしい。でも押し切ったのはさすが。大英断である。
「ボルチモア」は、途中の休憩時間を含めて確実に2時間はやっていた。問題数は優に150問を超えるという長丁場だったのだけど、全く疲れが感じられなかった。
クイズ形式ではトマト戦争がダントツに楽しかったのだが、クイズそのものはこのボルチモアが最高に楽しかったからだ。
ウルトラのツアーに行きたいと思っていた人はたくさんいたと思う。旅行自体がとても楽しそうに見えるから。実際のところ、その考えは正しい(笑)
でもちょっと足りない。あなたが思っている数万倍もウルトラツアーは楽しいのだ。
ツアー中の僕らにとって「クイズをする」ということは確実に誰かと別れてしまうその原因であり、自分にとって旅が終わる悲劇を生む可能性を孕んだ手続きでしかないのである。
クイズが好きで得意なはずの我々クイズ研の人間でさえそう思うのだ。クイズさえなければいいのになぁ、って。
しかしこのボルチモアは違った。
純粋にクイズが面白くて面白くて夢中になれたのだ。
旅行の部分だけでなくクイズそのものの部分が楽しい。この日僕らはそんな奇跡のような時間を過ごしたのである。
秋利は負けた後のインタビューで「こんなに楽しい日はない」と言ってたが、その理由はこれなのだ。曵かれ者の小唄ではないのである。
ところでボルチモアの前夜の部屋割りは何と、「田川・永田」「長戸・秋利」だった。当時は変に思わなかったが今改めて考えると何故なんだと思う。ライバル扱いしてたんちゃうんか?(笑) 一緒にしたらアカンでしょ。クワガタムシでも違うケースで飼うで(どんなたとえや)
準決勝前夜で同室になった僕と秋利はとにかく話をした。いろんなことを。
そして当たり前のことなんだけど、お互いどんなことがあってもニューヨークに行こうと誓い合っていた。
僕は『第13回』のツアーを、「映画を撮影している」というつもりで時間を過ごしていた。だからスタッフを仕事仲間とも思っていたし、挑戦者は共演者でもあった。もちろん僕は主役なんだけど(笑)
そのストーリーがもうすぐ完成する。そんな僕のこの段階での筋書きでは、決勝の相手は秋利だったのである。
僕以外の3人のうちでクイズが最も強かったのは間違いなく永田さんだった。群を抜いていた。だから決勝においてクイズ的な見応えは永田さんとしかできないとは思っていた(この時点ではそう思っていた(笑))。
でも僕の相手はあくまでも秋利だったのだ。
なぜなら、僕としてはこのツアー中で(意図はしなかったが)張られていた伏線を回収しなければいけないと思っていたからだ。
で、ここからはとっておきの話である。
このツアー中、秋利は腕などにハチマキを巻いていたのをご存知だろうか。
ボルチモアで負けた後、涙を拭ったあのハチマキである。
放送ではあれがクローズアップされることはついになかったが、あのハチマキには猫の絵が描かれていた。ではその猫の絵を描いたのは誰か。正解は村田栄子さんである。
村田さんといえば『今世紀最後』のウルトラでスカイダイビングをしたスーパーマダムとして知られているが、クイズ界的には超が100個ほどもつく有名人で、出場歴や戦績などは僕なんかは逆立ちしても追いつかない。
秋利が日本を出る前に、これを持って頑張りなさい、と村田さんから直々に渡してもらったのがあの「猫のハチマキ」なのである。
で、その「猫のハチマキ」だが、実はこの世にもう1本存在する。
それを持っていたのが他ならぬ僕だったのだ。
高校を卒業し18歳で単身東京で暮らしていた時、僕はホノルルクラブに入会させていただいた。その時の会長をなさっていたのが村田さんである。
例会場所から帰る方向がたまたま一緒だったため、毎回僕は村田さんが運転する車の助手席に座るチャンスを得ていた。2人きりとなっているその車内ではクイズの歴史からクイズ界の問題まで、実に様々なことを教えてもらったし、聞くことができた。京都の一高校生だった僕にとってクイズの世界が一気に開けた時間だった。
だから村田さんは僕にとっては紛れもなく「東京の母」であり、「クイズでの母」なのである。
僕が南米から帰国してドーム予選を突破した後、村田さんは僕にも頑張りなさいという意味でハチマキを渡してくれたのだ。長戸君と秋利君に作ったのよ、と。
僕はそのハチマキをどのタイミングで出すか、ツアー中ずっと考えていた。
物語的には僕と秋利は罵り合って勝ち進んで行っているというプロレス的スタイルが面白かったし、また僕のマスコットとしてはマルタがいたので重複するのも変だとも思っていた。
でもハチマキを出す最高のタイミングがとうとう見つかったのだ。それがニューヨーク決戦なのである。
僕がそれまでずっと気にしていたのは、ショットオーバー以降、放送では秋利は敵役になってしまってるんじゃないかということだった。
前にも書いたが実際ウチの叔母ですら「あの秋なんとかさん、嫌いやわー」とか言ってたぐらいだからね。
僕が回収したかった伏線とはその部分なのである。
ニューヨークの船の上では番号が若い秋利は下手に座る。インタビューの時にハチマキをポケットから出し、それを腕につける。
続いて上手の僕がインタビューを受ける。その時、おもむろにポケットからハチマキを出し腕につけるのだ。全く同じハチマキが2本。そこで「実は2人は友人で…」という謎解きが為されるという展開を作りたかったのだ。
なのにあのアホは負けやがって(笑)
で、とうとう僕のハチマキは日の目を見ることはなかった。
でも実はいつもバックパックのポケットの取り出しやすいところには入れてはいたんだけどね。
僕が望んだ筋書きでは相手は秋利だったんだけど、スタッフ的には、特にトメさん的には、決勝はどうも田川さんと僕をやらせてみたかったようだった。それは前夜の会食の時に感じたし、日本で聞いてもそう仰ってた。
もちろんクイズはガチなので、あくまでも見たかった、という話ではある。
ただ僕にとっては申し訳無いけど田川さんとニューヨークをやるイメージは全くなかった。
それはボルチモアが間違いなく早押しの世界になるのがわかっていたからだ。
しかし事実は田川さんは2度もお立ち台に立っているので、ニューヨーク行きのチャンスは十分にあったのだった。
もし田川さんとニューヨーク対戦をしたらどうなっていただろうか。
今になって考えてみると、ひょっとしたら一番ヤバい展開になっていたかも知れない。だってあまりにも得意不得意ジャンルもプレースタイルも真逆だからだ。
ただ、だとしても僕は勝っていたと思う。
なぜならばいくら点数的に追い上げられても、途中からでも田川さん用に僕がプレースタイルを変えて対応していただろうからだ。なぜなら田川さんのことはもうすでに分析済みだったのである。メンフィスで全てがわかったからね。
「田川君の敗因はメンフィスで1抜けしたことだろうな。」
これはサンフランシスコでのバーでトメさんが僕に言ってくれた言葉だったのだ。
そして僕は返した。
「ですね。」
というわけで、いよいよニューヨーク決戦!永田さんへの思いはそのときに。
明後日、29日の夜にお会いしましょう。
![]() ゲーム直後の敗者2人。撮影したのは永田さんである。凄いなーホントに。 |

コメント(2)
ボルチモア篇の記事復活して良かったです。
もし写真のように本当に四人決勝になっていたらどんな戦法で戦っていたのかとか、ハチマキの出番はあったのかとか、三人からマークされていた田川さんはニューヨークに行く間に対策を練っていよいよ結末が変わっていたのかとか色々架空戦記で妄想してしまいます。
貴重な裏話ありがとうございます。
メッセージありがとうございます。
4人戦ならもっと混戦だっただろうね。
なにせ僕と秋利の得意ジャンルがかぶってるから、潰し合ってしまって、ホントに田川さんや永田さんが勝ってたかもしれない。
そういう妄想はとても面白いです。