2017年9月25日 『28年前日記』その15:第13チェックポイント メンフィス(1989年9月25日)
![]() これは早朝のデンバー空港にて。「ボルチモア4」ならぬ「メンフィス5」である。 |

※1 また1時間半という放送枠をから考えても
この段階ではまだ5週目の放送枠は1時間半だった。これが2時間に変更になるのは数日後のことである。
※2 まだ5人も残っているが次はいきなり準決勝
『第6回』の準決勝がこの状態。
※3 翌日にクイズがないということで安心し切っていた僕は
単なるアホやん。
※4 僕に付き合わされていた同室の木村も半ば徹夜の状態だった
木村スマン!
※5 自分の頭の中でちゃんと答を確認してから押すというものだ
つまり僕のクイズはそんな方法ではなかったのだ。確認してから押すのではなく、押してから確認するのだった。だから誤答が増えるのである。詳しくは『理論篇』のクイズ理論の部分を参照のほど。
※6 ゴールラインを横切るまでの時間は約4分半
放送では3分に編集されている。
※7 自分と木村の点数だけを頭の中でカウントしながらクイズを進めて行くんだ
いつもは誰が何点を取っているのかの表示を見ながらクイズを進めて行くのだが、この回に限ってはクローズでゲームが進んで行った。
※8 最下位争いは僕と木村の2人となった
テレビ的にはどっちが勝ったか負けたかわからないという表情が欲しいのかなと思った僕は、最後2人になったときに急に神妙な顔をした。しかしよく見ると、さっさと勝ち抜いて立ち上がるつもりでハットの紐を下まで緩めているのがわかる。勝つのわかってるの、バレてるやん(笑)
こういうのを全部わかった上でもう一度さっきの神妙な顔を見返すと、芝居が臭くて笑けてくる。
※9 僕は結局4ポイントで木村を制し
放送では僕は3ポイントになっていて、それに対するトメさんのコメントは「わずか3ポイントだぞ。」だったのだけど、実際のコメントは「その差、わずか3ポイントだぞ。」だった。
※10 秋利美紀雄
何年か前に「美紀雄」が「美記雄」に変わっていた。詳しくは本人に。
『クイズは創造力 理論篇』の元になっているものの1つである、ウルトラツアー中に書いていた本物の日記は、実はここ、メンフィスのゲーム前で終わっている。
それは何故か。「安心した」からだ。
後にウルトラのツアーに臨もうとしていた能勢にも大西さんにも僕は毎日の日記の必要性をアドバイスした。これは帰国してからの回想録執筆のためということでもあったが、最大の理由は「精神の安定を図るため」なのである。
ウルトラのツアーはスタッフ的には体力的に過酷なものだが、挑戦者的には精神的に半端ないほど過酷なものだ。
旅の途中では必ず精神が参ってしまうし、不満や鬱憤は知らず知らずのうちに溜まってくる。そしてそれはいつしか表に現れて体に変調をきたしたり、表情がおかしくなってしまうことがあるのである。
それではいけないのだ。体力は管理しやすいが、管理の難しい精神面は意図的にある一定ラインをキープし続ける必要がある。
そしてその手段の1つとしての日記なのである。
回想録をまとめたくなければ当然日記というスタイルでなくても良い。真っ白いノートに自分が思ってる不満などを殴り書きするのも悪くない。とにかく心の中にある面倒臭いものを毎日外に出す必要があるのだ。
メンフィスのゲーム直前にトメさんが僕らに向かって言った、「ここを抜けると気分的に楽になるからな。」は至言なのである。何年もの経験からスタッフが挑戦者のメンタルの変化を正しく把握している証左でもある。挑戦者はそういう相手とも戦っていたのだ。
優勝は楽勝と思っていた僕だったが、「大スランプ」を感じていた様子から実際は想像以上にプレッシャーに潰されかけていたようだ。そのプレッシャーは日記だけでは発散できなかったようである。もちろん日記がなければもっとひどい状態だったのだけど。
トメさんの言う通りメンフィスを抜け、準決勝「通せんぼクイズ」、決勝「10ポイント」というのが明確に見えた時、僕の心は解放された。
同時に日記はその役目の一つを終えたのである。
そしてその段階で僕はある意味普段の自分にようやく戻れたのだった。
放送を見ていたら準決勝の途中から急に強くなったように思えるが、本来はあんな感じでクイズをやっていたのである。
というわけで、次はいよいよボルチモア篇。27日の夜に。
![]() これはプレスリーの生家の前での記念撮影。僕は行った記憶がないのは部屋でゴロゴロしていたせいか?生家だけに。 |
その1:国外第一次予選 南米→日本 (1989年7月29日~8月6日)
その2:国内第三次予選 成田空港 (1989年9月2日)
その3:第1チェックポイント 成田→グアム (1989年9月2日)
その4:第2チェックポイント グアム(1989年9月3日)
その5:第3チェックポイント グアム(の夜)(1989年9月3日)
その6:第4チェックポイント ゴールドコースト (1989年9月7日)
その7:第5チェックポイント モーリー (1989年9月9日)
その8 :第6チェックポイント ブルーマウンテン (1989年9月12日)
その9:第7チェックポイント シドニー (1989年9月14日)
その10:第8チェックポイント クイーンズタウン(1989年9月16日)
その11:第9チェックポイント ショットオーバー(1989年9月17日)
その12:第10チェックポイント ロサンゼルス(1989年9月20日)
その13:第11チェックポイント ツインレークス (1989年9月22日)
その14 :第12チェックポイント チムニーロック(1989年9月24日)
その15:第13チェックポイント メンフィス(1989年9月25日)

コメント(8)
集中連載28年前日記、おおきにお疲れさまです。
プレスリー生家前写真、デンバー写真と見較べるに
長戸くんが撮影したものでしょう。
※デンバー写真はカメラを地面に置いてセルフタイマー
次はいよいよボルチモア⚔
“4人でバンザイ”写真の発掘作業に勤しみながら、
コメント欄の復旧お祈りしています。
言い訳:まだ見つからないー2017-09-25_21:30_JST時点
お疲れ様です!
プレスリーの写真は僕でした?
全然記憶にありません。ボルチモアって市内観光したんでしたっけ?
>北に進んでいるつもりだったのに・・・・
オーストラリアの罰ゲームでありましたね。
「南に進むには太陽に向かえばいい」と教えられたのだが、実は南半球では太陽が北であるという落とし穴
おー、なるほど。小室さんだな。
ちゃんと13回のネタを仕込んでいたんだ。28年経ってようやく気付きました。
あの時は5人からいきなり2人しか残らないのではというプレッシャーから、ラストの1人にならないならいいというルール発表になって、本当にホッとしたよな。
あれが通過クイズだったらたー兄も木村もむちゃ押ししてたかもしれないもんね。
ルール発表でホッとした。(木村はどうなんかっつうことやな)
あとは席順。ずっと永田さんの横やったのも実は嫌やったんよね。オレは裏千家のキレイなクイズが信条やし。
「裏千家のキレイなクイズ」に爆笑してしまった。
オマエの話で爆笑したのはこれが最初で最後やな。
28年前日記ももう準々決勝メンフィスまで来ましたね。
まさかの準々決勝(?)という展開になったのは寝不足ではあったけど良かったのかもしれません。タイムレースが短時間勝負であることも考えても。
ちょうど28年前日記に合わせる感じでメンフィスに行って来ました(^ ^) アヒルさんも見て、屋上に登ってみて、ここで準々決勝行われたんだと感慨深くなり、このコラムを読んで、そんなことをあの中で考えていたんだ〜と実際訪れてなんか不思議な気持ちでいます。
この後いよいよ準決勝。私もその激戦地に行ってきます。きっと感激してしまいそう!
またコラム楽しみにしてます!
すげー、実際に行ったんだよね。メンフィス~ボルチモア~ニューヨーク。
そこまで行ったらサンフランシスコまで行かないと!